心臓がまだバクバクとうるさく脈打っている。
乱れた格好を見られたくなかったため、途中自分の長屋に寄るまでは、なるべく人通りの少ない道を選んで通ってきたが、思ったより早く着いた。
ここは八丁堀の詰所。今は誰も居らずしんとしているが、春哉が駆け込んだときは同心が数名、書き物をしていた。
書類と格闘する同心の中に見知った顔を見つけた春哉は、彼に向かって一目散に駆け寄り、思わず抱きついた。
「賢悟さん!」
周りの同心たちは目を瞠ってその様子を見ていたが、賢悟だけは冷静だった。何があったか、大方の察しがついているらしい。
「おい村江、すぐに人員と体制を整えろ」
「はいっ」と短い返事が聞こえてきたのと同時に、賢悟は春哉の肩を掴んで訊いた。
「春哉さん、場所は?」
「呉服商の和泉屋の二階です!和泉屋は短刀を持ってます!」
「わかった。常蔵、春哉さんを頼んだぞ」
「かしこまりました!」
春哉の身柄を自分の手下に任せると、賢悟は早速行動に移った。装備を整えると、配下の同心たちを連れて詰所を出て行った。
「大丈夫ですよ、里村様は南町の切れ者ですから」
春哉の心配そうな様子を気にしたのか、手下の常蔵は春哉を上にあがらせた。熱いものでもいかがですか?と言われたが、媚薬の効果が切れない体はむしろ、冷たいものを望んでいた。
「いえ、冷たい水を……」
塞き止められていた射精感は、和泉屋と詰所の間にある自分達の長屋の厠で処理してきたため、今はもうない。それだけでも救いだった。
「それにしても良いものを見ました」
常蔵は水を差し出しながらにっこりと微笑んだ。あどけなさを残すこの表情はどことなく数馬に似ていた。
「普段冷静な里村様が春哉さんに抱きつかれた時、心なしか赤くなっておいででした。……あっ、不謹慎でした。こんな大変な時に……申し訳ありません!」
普段、数馬といるときの賢悟は年相応にふざけたりしているが、いざというときの彼がどれほど冷静な人間かは春哉も知っていた。だからこそ若年ながら筆頭同心という大役を務められるのだとも感じていた。
自分は我を失って狼狽していたため、そんな彼の様子を見ることはできなかった。そう考えるとちょっと惜しいことをしたなと思った。
「そうでしたか?私は気付きませんでしたが……でも、もしそうなら見てみたかったです」
くすりと微笑むと心が落ち着いた。常蔵も事件のことは敢えて聞かず、ただにこりと笑って里村のことを話し、春哉の気持ちを落ち着かせた。
その心遣いがありがたかった。